teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]
あなたも高機能な無料レンタル掲示板を作りませんか?
作成は、こちらから→

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


50Kmを 2時間30分

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年11月18日(金)17時04分31秒
返信・引用 編集済
  マラソンの記録でありません。ママチャリでのサイクリングの記録です。
入間川の堤防沿いのサイクリング道路が全長約23Km、我が家からサイクリング道路まで約2Km。これを往復しました。それで50Kmです。
年に数回は走っているのですが、河川敷には様々な施設(芝生公園、サッカー場、野球場などなど)があって、花を撮ったり、鳥を撮ったり、スポーツを眺めたり、単にのんびり走ったり、時間を計測したことがありません。
一昨日は風が冷たく強かったので、朝のスタートを見合わせ、11時過ぎに早い昼食とし、少し暖かくなった11時45分に出発、帰宅したのが14時25分。途中休憩が約10分で2時間30分です。
往きはもろに向かい風、還りも風を受け、最後はヘロヘロ、計測のため、目一杯走って平均速度は約20Km/時。

それにしても、42.195Kmを2時間数分で走るマラソン選手は凄いと思います。
 
 

青海黒姫山(おうみくろひめやま)1222m

 投稿者:高柳  投稿日:2011年11月 6日(日)20時31分52秒
返信・引用
  山行日2011年10月20日~21日

この山は新潟県の日本海のそばにあり石灰岩の山で現在も採掘が行われていて、あと500年は採掘できるといわれている。採掘が進むにしたがい平成20年4月に従来の登山道は閉鎖され、現在は3キロメートル奥の清水倉から登るようになっている。

以前から登りたい山であったが登らないうちに道が変わってしまった。比較的新しい登山道なのでガイドブックがなく、ネットからデーターを得た。また、登山口に近い「親不知観光ホテル」に今春電話したら大変親切にご案内いただいた。

宿は「親不知観光ホテル」に取った、あの栂海新道(つがみしんどう)を下った正面のホテルである。宿を車で朝4時50分に出て登山口の清水倉登山口(標高85m-日本海のそばですものね)に5時20分に着き身支度をして5時半に出発した。登山口の橋の手前の路上に駐車できるスペースがある。登山口までは舗装道路である。

歩き始めは緩やかであるが1時間半ぐらい登ると斜度が増してくる。道は最後の頭頂部まで樹林帯で、山が石灰岩なので雨水を吸わず、降雨後の登山道は水を含んでいて滑りやすい。途中に小さな広場があり幹に名刺ほどの小さな板に「一本杉」と書かれている。ここで標高400mぐらい。

ここから標高850mの水場がある金木平を7時50分に通り、標高1050mまでが急登で油断すると滑る。タイガーロープも所々あり、木の根を引っ張り、幹をつかみ登っていくと稜線に出る。ここに着くまでに1回転倒した。右脇腹を下に横転し、そのままくるっと回転して左脇腹を下にして止まった。自分でもどうに転んだか分からない。

稜線にでると岩稜の尾根の先に山頂が見え、その山腹は紅葉に包まれていた。天気は日が射したり、陰ったりで山頂に近づいたときは陰ってしまい、紅葉もくすんでしまったのが残念である。山頂には9時25分に着いた、登山口から3時間55分である。山頂からは栂海新道の稜線が見え白鳥山も指呼の間である。雨飾山、妙高山も見え日本海は鈍色に煌めいていた。

下山は同じ道を下る。滑る道だがロープもあり、樹林帯なので左右には掴む物が多く、慎重に下れば問題はない。しかし、わたしは1回尻もちをついた、泥の粒子が細かいためかズボンが乾いても泥は全く落ちなかった。今回2回も転倒したがそのような年齢かと自覚した。

金木平の手前で2本の細い沢を渡る。登っているときは気にもせずに渡ったが、下っていくと間違って沢を下りそうになる。実際2、3年前に沢を間違って下ってしまい、あと少しで人家という場所で発見された遺体は、足が骨折していたそうである。12時50分晴天のもと清水倉登山口に下山した。

<覚 書>

*糸魚川駅周辺には民宿は無く、ビジネスホテルだと食事は当然自前で、外で摂らなければならないし飲食店も少ない。

*親不知観光ホテル泊の場合、タクシーは糸魚川から呼ぶことになる。ホテルから登山口まで約30分である。ホテルの宿泊料金は2食付8,970円~12,000円

*梅雨明けからお盆までは毎年アブが集中的に大量発生し、山には入れないとホテルの支配人が話していた。やはり紅葉の時期が一番だが今年2011年の紅葉は最悪とのことでした。

*雪質は日本海に近いため水分が多く雪解けは早いとのこと。

*登山道は良く滑り、沢状の道もあるので降雨時は避けたいものである。

☆コースタイム

清水倉登山口5:20~5:30金木平7:45~7:50旧道との合流点8:55青海黒姫山頂9:25~9:50金木平11:20~11:30清水倉登山口12:50
 

Re: 夏でも長袖

 投稿者:おおた  投稿日:2011年10月 5日(水)20時25分10秒
返信・引用
  > No.1681[元記事へ]

高柳さんへ

アドバイスありがとうございます。ジオラインアンダーシャツは今度、山用品店で見てみます。かぶれの方は気温が低くなってやっと治りつつあります。もうかぶれは懲り懲りです。長袖にして手を木に直接触れないようにしないといけないですね。反省です。カミさんや母親からは山はもうそろそろ足を洗ったらなどと、冷たい言葉をかけられています。
来週は東京経由で北海道の霧多布湿原に行って来ます。だいぶ寒そうなので何を着て行くかまだ決めかねています。

 

夏でも長袖

 投稿者:高柳  投稿日:2011年10月 3日(月)21時51分52秒
返信・引用
  大田さんの漆のかぶれ痒そうですね、大きな体が身をよじっているのでしょうか、早い完治を願っています。

新しい繊維が各種あり、真夏でも着ていて涼しい長袖があります。わたしも2年ほど前から着用していますが快適です。べたつかず、風が通り過ぎていきます。

因みにわたしが着用しているのはモンベル社の「ジオラインアンダーシャツ(中厚手)のハイネックで5,300円」です。春から秋にかけて行動中はこれ1枚でOKです。
 

ウルシかぶれ

 投稿者:おおた  投稿日:2011年 9月30日(金)09時42分21秒
返信・引用
  9月11日に能郷白山という福井県と岐阜県の県境の山に登った。名古屋から東海道線に乗り、大垣に出て大垣から第3セクターが運営する樽見鉄道に乗り換え、終点の樽見まで行った。樽見鉄道は1両編成の車両で乗客は5人ほどと驚くほど少なかった。樽見から予約していたタクシーに乗り、根尾(薄墨桜で有名)というところを通り、能郷白山入口のゲート前で下車した。そこから約4km歩いたところに登山口があった。ここから往復6時間弱かけて能郷白山に登った。うまくいけば頂上から加賀の白山も見えたのかもしれないが、ガスのためまったく見えなかった。ただリンドウの多い山であちこちでリンドウの群落が見られたのが救いだった。そんなわけで下山後も、ゲートまでひたすら歩き、ゲートからまたタクシーに乗り、樽見からまた樽見鉄道にのり、東海道線を乗り継いで、夜遅くに帰宅した。
それで終われば特に問題はなかったのだが、2日後に右手に痒みの強い赤い湿疹のようなものが出てきた。最初は家で虫に刺されたのかと思っていたが、左手や上半身にも出てきたので、皮膚科の医者にかかると、虫ではなくかぶれだとのことだった。そういえば能郷白山は
やぶ山で半そでシャツから出した両手は常に木の枝等に触れながら歩いたことを思い出した。医者からステロイドの塗り薬とヒスタミン系の飲み薬を処方されたが今でも痒みが取れずに、薬が離せない。今までずいぶん山に登り、ハゼやウルシの木に触れたこともあったような気がしていたが、こんなことはなかった。医者に次からは免疫ができてかぶれることはないのか聞いてみたが、それはないとのことだった。これからは暑くても長袖で歩いた方がいいのかもしれない。木材の専門家である義父に聞いてみたところ、漆のかぶれは、気をつけないと重症化することもあるとのことだった。これからはもっと気をつけなければいけない。
 

ダメ男を報ず--朝日新聞も少しはまともに?  良心的学者に賞

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 9月 7日(水)16時00分24秒
返信・引用 編集済
  9月7日の朝日新聞のWebニュースより

「東北の野菜や牛肉、健康壊す」教授発言に一関市長抗議

 岩手県一関市の勝部修市長は6日、読売テレビ(大阪市)系列の番組で中部大の武田邦彦教授が一関市を挙げて「東北の野菜や牛肉を食べたら健康を壊す」などとした発言を取り消すよう抗議のメールを送った。さらに、「農家の感情を逆なでする非常識な発言である」とのコメントを発表した。

 武田教授は4日午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」で、「東北の野菜とか牛肉を食べたら僕らはどうなるの」という子どもからの質問に対し、「もちろん健康を害する」「今生産するのが間違っている」などと発言。ほかの出演者が「発言を取り消すべきだ」と反対したが、「取り消しません」と応じた。
(以下、略)


一方、9月1日に朝日新聞は、山下俊一・福島県立医科大学副学長に、「朝日がん大賞」を贈ると報じました。

以下は、朝日新聞の「ひと」欄の内容です。

 旧ソ連のチェルノブイリ原発事故後の医療協力で現地に行ったのは100回を超える。20万人の子どもの検診事業に力を尽くし、放射性ヨウ素の影響で甲状腺がんが増えていることを明らかにした。

 福島第一原発事故では、3月18日から福島県に入った。県から放射線健康リスク管理アドバイザーに任命され、30回以上の講演で住民に放射線の健康影響を語った。

 「チェルノブイリで培った20年間の経験を福島で生かすべきだと思いました」

 健康への影響を「大丈夫」と言い過ぎたという批判も受けた。「大丈夫と言ってきた責任がある」と、被曝(ひばく)に向き合い続ける。7月には長崎大教授を休職して福島県立医科大の副学長に就任した。住まいも福島に移した。

 原発事故が実際、住民の健康にどんな影響を及ぼすのか。全県民を対象にした健康管理調査に取り組む。住民の放射線への不安にこたえ、がん予防など個人の健康づくりにもつなげたいと考える。

 長崎生まれの被爆2世で、先祖からのクリスチャン。子どものころから尊敬してきた人物は、原爆被爆者の医療に身を捧げ、「長崎の鐘」の著作で知られる永井隆博士だ。博士の心を胸に刻んで医学の道に進んだ。
(以下、略)


注:山下俊一・福島県立医科大学副学長は年間20ミリシーベルト、毎時3.8マイクロシーベルトをわずかでも下回れば「安全」であると述べられています。飯舘村での講演では「現在、20歳以上の人のがんのリスクはゼロです。ですからこの会場にいる人たちが将来がんになった場合は、今回の事故に原因があるのではなく、日ごろの不摂生だと思ってください」と述べられています。これこそ学者の良心でしょう。

「環境放射能が人体に及ぼす影響等について」(福島県災害対策本部) 3月20日
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/3006.html

福島市政だより速報版特集号:『放射能』について正しく理解しましょう
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/3104.html

「放射線と私たちの健康との関係」講演会 3月21日
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/3008.html
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/3009.html

(引用元のHPは批判的ですが、山下教授の発言がよくまとめられているので用いました。)

 

地球寒冷化の兆し?太陽北極域で異例の磁場反転

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 9月 2日(金)20時13分43秒
返信・引用
   宇宙航空研究開発機構の太陽観測衛星「ひので」が、太陽の北極域で磁場が反転し始めた様子を観測することに成功した。


 太陽の北極、南極の磁場は約11年周期で反転することが知られているが、今回は予想時期より2年も早いうえ、南極域では反転が見られないなど異例の様相を呈している。地球の環境変動につながる恐れもあるという。

 ひのでは7月31日、マイナス磁場(S極)だった太陽の北極域で、プラス磁場(N極)が増えていることを発見した。数か月で反転が完了する。磁場の反転は太陽表面の爆発など活動が活発になる極大期の2年後に予想されていた。

 磁場の反転と、太陽の黒点数増減の周期は、通常約11年で一致していたが、2009年初頭まで続いた黒点の周期は12・6年に延びた。活動周期が延びる時期は、地球が寒冷化することが知られている。研究チームの常田佐久(つねたさく)・国立天文台教授は「観測されたことのない事態だ。地球環境との関係を調べるため、太陽活動を継続的に監視していく必要がある」と話す。

(2011年9月1日21時57分  読売新聞)
 

Re: 《唐松岳から祖母谷温泉(ばばだにおんせん)》

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 8月19日(金)20時57分17秒
返信・引用 編集済
  > No.1669[元記事へ]

縦走ではなく横断コース、私もチャレンジしてみたいです。そして下山後に祖母谷温泉にのんびりつかりたいです。
かって、大黒鉱山から掘り出した鉱石は、祖母谷側ではなく八方側へ搬出したそうです。今と機械や器具が違っているのに、昔の人は凄い。現代風にいえば過酷な労働となるのでしょうが。


現在、外気温は22~23度、窓を開けていると涼しいを通り越して寒く感じるくらいです。今晩は夏布団までいきませんがタオルケットにくるまって寝ることでしょう。
今年は梅雨も早かったですが、秋も早いように思います。我が国付近の偏西風の蛇行も南下しています。
 

Re: ドロンゴ様

 投稿者:ドロンゴ  投稿日:2011年 8月19日(金)16時08分12秒
返信・引用
  > No.1671[元記事へ]

高柳さんへ

15-6=8になるくらい、昨日暑くて寝られませんでした。2時間の差は大きいですね。さぞかし
ダメッジ受けられたことでしょう。あの山行は、自分なりに写真+短文で纏めたものがあるので、お会いすることがあれば、お見せしますよー。その日がいつなのか、存じませんが。
 

ドロンゴ様

 投稿者:高柳  投稿日:2011年 8月19日(金)09時43分27秒
返信・引用
  感想有難うございます。
このコースは盛夏は避けたほうが良いですね。餓鬼山の登りの暑さだけが印象に残っています。カメラのシャッターを押す時間はたくさんあったのに、暑さのためか、樹林帯の下りで展望がないということもあり写真は餓鬼山避難小屋が最後でした。

花は色々見られましたが、説明してくれる人がいないので写真は撮りませんでした。時期は異なりますが、ドロンゴさんの花の写真がありましたら掲載して頂けたら幸甚です。

コースタイムのことですが、ドロンゴさんは6時8分出発で15時2分到着ですから約9時間ですね。わたしは約10時間です。ドロンゴさんのコメントで8時間と読んだとき、そんなに違うかと挫折感を感じましたよ。でも1時間の違いならと納得しました。
 

Re: 《唐松岳から祖母谷温泉(ばばだにおんせん)》

 投稿者:ドロンゴ  投稿日:2011年 8月19日(金)07時26分29秒
返信・引用
  > No.1669[元記事へ]

高柳さんへ

去年行ったコース、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。思い出の充実コース・・。参考までに
私の記録では,唐松岳6:08発祖母谷温泉15:02着で、8時間でした。鉱山跡着は8:18着で
2時間10分かかりました。高柳さんより多少早いのは、9月半ばで快適な気候だったことと(これは大きいと思います。)、このコースを熟知したベテランに贅沢にも先導して頂いたからです。実際餓鬼山への登りは、コースタイムよりかかります。「前半飛ばすと最後の水場以降でバテル」と言われた通り、最後は滑らないように集中するのが大変でした。祖母谷温泉の素朴な湯と塩焼きの岩魚、同宿の釣師たちと小屋主ご夫婦とのおしゃべりもいいものでした。山頂表示、まだ倒れたままなんですね。高柳さんが行くのを知っていたら、「起すしてくるよう」お願いしたのに。
 

《唐松岳から祖母谷温泉(ばばだにおんせん)》

 投稿者:高柳  投稿日:2011年 8月18日(木)22時55分24秒
返信・引用
  山行日:2011年8月12日~14日

前日12日の朝、上野駅から長野駅に着き急行バスで八方に着く。八方尾根のゴンドラとリフトを乗り継ぎ、観光客が群れる八方池を経て唐松山荘に着いた。それから唐松岳を往復した。幾度目の山頂かと、思い出そうとしたが分からなかった。

お盆なので小屋の混雑を予想したが6人用の上階の棚に4人と、ゆったりであった。窓からは正面に剱岳が望まれ、日没時にはガスが金色に染まり、その奥に剱岳のシルエットが出現した。
小屋のご主人から祖母谷温泉までのコースの状況の説明を受け、明日の小屋の朝食は5時20分なので食べてから出ることにした。

小屋を出て冷たいガスが流れる中を5時50分に出発する。朝餉のテント場を通り抜けて登山道に入る。道は唐松岳の山腹をトラバースするように付けられている。鎖やロープもあり年によっては残雪もあるというが、滑落したとき下には深い谷が待っている。左手には五竜岳がその存在を誇示するように聳え、いま目覚めたかのように、ガスがゆるやかに山腹を這い登っていた。

岩肌を慎重にトラバースしながら1時間ほど歩き、振り返るとすぐ上にさっき出てきた小屋が見え、歩いた距離の短さに驚かされる。そのあとは歩き易い道になり、やがて周囲が開けた大黒鉱山跡に着く。時刻は8時35分で小屋を出てから2時間45分が経っていた。

今日の道は唐松山荘が標高約2600mで、目的地の祖母谷温泉は約750m、その差は1850mであるが、その標高差を下っていけば良いというわけにはいかない。大黒鉱山跡の標高は1850mくらいで、これから登る餓鬼山は2128mでその差は300m弱であるが、夏には地獄のコースと呼ばれる厳しい登りが始まる。昇ってきた夏の太陽は背後から容赦なく照りつける。30分登り5分休憩を繰り返し、大黒鉱山跡から1時間55分かかり、10時35分餓鬼山に着いた。

山頂は登山道から右へ少し入ったところにあり、山頂標識は倒れ、夏の日差しだけが狭い山頂に照り返っていた。暑くて周囲の山を見渡す余裕はなく登山道に戻り、日陰を選んで休憩をとった。餓鬼山からの下りは日陰が多い樹林帯になる。アルミ製の梯子やロープが多く設置されている急な岩道であるが、良く整備されていて危険はない。

1時間ほどで餓鬼山避難小屋に11時40分に着いた。小屋は小さいが清潔な板敷になっていて20名は泊まれるそうである。ここから道はなだらかになる。この先にある「餓鬼ノ田圃」は歩いていると見過ごしてしまいそうであるが、雨量計が目印になる。地形図では道の右側になっているが実際は左側にある。周囲は樹林帯だがそこだけは湿地帯のようで、低い草が茂っていて稲のよう見える。

「餓鬼ノ田圃」から35分ほど進んだ右手を少し入ったところに、岩場から流れ出る水場がある。暑い中を歩いてきてザックの水も温まっているが、この水の冷たくなんと美味しいことか。少々飲み過ぎてしまった。ここから30分で南越沢(なんこしざわ)に出る。時間は14時25分。大きな岩がころがる沢に入ると直ぐ左手(右岸)に登山道が見える。岩の上にザックを放り出し、冷たい沢の水で腕を洗う。涼風が火照った頬を優しく流れていく。残っているテルモスのお湯でコーヒを入れ、スモークチーズを齧った。

ここから祖母谷温泉までは沢沿いの道をたどる。朝、小屋を出てから既に8時間半が経っている。足にも疲労がきているようで、トラバースのとき足の踏ん張りが効かず草の上で良く滑る。最後は石がごろごろとした飛び石の道で、転倒しないよう注意しながら歩いていると突然、橋が見えその向こうに祖母谷温泉の小屋が見えた。小屋に着いたらビールが先か風呂が先か、ああ悩ましいことである。祖母谷温泉には16時に着いた。

☆コースタイム
唐松山荘5:50大黒鉱山跡8:35~8:40餓鬼山10:35~10:40餓鬼山避難小屋11:40~12:00餓鬼ノ田圃13:00~13:10水場13:45~13:55南越沢出会い14:25~14:35祖母谷温泉16:00

<覚 書>

*唐松山荘から祖母谷温泉へのコースタイムはガイドブックによりバラツキがあり、6時間から8時間20分まである。今回のわたしの行動時間は5時50分から16時まで10時間10分であった。

*唐松山荘から大黒鉱山跡までガイドブックの多くは1時間30分になっているが、わたしは休憩を入れて2時間45分かかっている。コースタイムとしては2時間15分が妥当ではないだろうか。

*いつの日か歩こうと思われる方は、お手持ちのガイドブックにわたしの行動時間を書くことをお奨めしたい。最長で10時間と認識されたら良い。また、残雪、登山道の刈り払いなどの状況を事前に唐松山荘に確認して欲しい。

*祖母谷温泉で温泉マニアの山田紅子(べにこ)さんにお会いした。礼儀正しく気さくな方で、朝食後に例のプラスチックのオケとタオルを持って野天風呂で撮影していました。
 

寿命を縮めているもの 未婚>喫煙>肥満>>>放射線

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 8月 1日(月)20時20分29秒
返信・引用 編集済
  未婚者の死亡率が既婚者より相対的に高いというのは知られている事実ですね。

社会実情データ図録というHPに「寿命を縮めているもの」というのが掲載されています。
そのページの書き出しを転載します。(全文は下記をみてください。)
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1820.html


 1979年6月刊とやや古いが、放射線医学の雑誌に載った「リスク・カタログ」という論文が米国において寿命をちぢめているもののカタログを提供している。

 米国人の放射能に対する非科学的な恐れ、及びそれをあおるマスコミに対して、放射能より大きなリスクはこんなに沢山あるよと啓蒙するための論文であるが、著者はさらに一般化して、様々なリスクを寿命の短縮日数に換算して示し、「世の中の人はいつも種々のリスクに対する長広舌をふるい、これが政府の意志決定に大きな影響を与えている」現状に対して、適切な参照基準を提供しようとしている(論文紹介資料による)。

 米国では1979年3月28日にスリーマイル島原子力発電所事故がおこり、それ以降、最近まで新規の原子力発電所の建設が凍結されていたほどであるから、この論文の発表時期に放射能に対する恐れが世間にあふれていても当然だったといえよう。

 寿命に影響を与える最も大きなリスクは、未婚、特に男性の未婚であり、9.6歳寿命を短縮すると計算されている。

 

Re: 映画「127時間」

 投稿者:泉州水なす  投稿日:2011年 7月20日(水)22時34分18秒
返信・引用
  > No.1653[元記事へ]

高柳顧問、わくちゃんさん暖かいお言葉ありがとうございます。
烏帽子小屋に勤めておりましたのは長男でした今回遭難しましたのは次男です。
小さいころから長男とは結構山登りしておりましたがその頃の次男はほとんど山登りには
興味も示さず今回の事で家内とも「えっと!!」との気持ちでした。
7年前に公務員で山梨に赴任しその後会津そして今の須賀川と親元を離れているうちに山に興味
を覚えたのかは定かではありませんが今回誰にも告げず登山届も出さずに入山したようです。
福島から自分の車で吉野洞川温泉から山上ヶ岳・大普賢・七曜岳そして行者還岳そして天川辻
からの下山、ちょっと日帰りコースでは無謀と思われるコースでの下山道で滑落し遭難したようです。
下りでのちょっとの焦りが道迷いスリップ・滑落に結果として結び付いたのかもしれません。
左股関節骨折した状態で翌日約1km沢筋を下ったことが4日目に渓流釣りの人に発見され救助
され助かった事の要因になったのかとも思われます。
本人は生かされた命をこれから大切に生きていかなくてはと言っております。
本当に助かってくれてよかったとの気持ちで一杯です。
皆さんもこれから里山であろうとどんな山であろうと必ず行き先を家族、知り合いに言って行かれるように・・・!!



> 泉州水なすさんへ
>
> 息子さん、大変でしたね。ご本人のつらさは想像もつきません。5日間の時の中で死を覚悟されたことでしょうね。しかし、必ず生きて帰りたいという想いが発見に繋がったのかもしれません。
>
> 泉州水なすさんも、発見・救助の連絡があるまで、それは、ご心痛だったことでしょう。親として、その想いは想像ができます。発見され救助され、本当によかったですね。涙がでてきました。
>
 

Re: 映画「127時間」

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 7月16日(土)06時48分9秒
返信・引用
  > No.1650[元記事へ]

泉州水なすさんへ

息子さん、大変でしたね。ご本人のつらさは想像もつきません。5日間の時の中で死を覚悟されたことでしょうね。しかし、必ず生きて帰りたいという想いが発見に繋がったのかもしれません。

泉州水なすさんも、発見・救助の連絡があるまで、それは、ご心痛だったことでしょう。親として、その想いは想像ができます。発見され救助され、本当によかったですね。涙がでてきました。
 

耄碌、勘違いの独裁者

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 7月16日(土)06時34分4秒
返信・引用
  今朝の産経抄は秀逸でした。転記します。


 むかしむかし、といっても半世紀ほどむかしのお話。おとなりの国に毛沢東というおじさんがいました。あるとき、そのおとなりのフルシチョフおじさんが、「あと15年で工業でも農業でもアメリカを追い越す」と自慢しました。

 世間の人は、酔っぱらいの戯言(たわごと)と相手にしませんでしたが、おとなりに負けたくない毛おじさんは焦りました。さっそく「こちらは5年でイギリスを追い越す」と言い出し、大躍進運動の号令をかけ、土法炉という原始的な溶鉱炉を村々につくらせました。

 大躍進は鉄の増産から、と常識外れのノルマを強制し、ちりも積もれば山となる机上の計算をしたのです。でも貧乏だったので、原料の鉄鉱石や燃料の石炭がまったく足りません。

 困り果てた村人たちは、石炭代わりに木を切って木炭にし、スキやクワ、釜までくず鉄にして炉に放り込み「鉄」をつくったのです。おかげで鉄の量は増えましたが、ほとんど使いものにならず、緑の山はハゲ山になり、農機具も消えて村は荒れ果てました。

 そんな毛おじさんをまねようとしている人がいます。菅直人という変わり者です。政商をもうけさせるだけかもしれぬ太陽光発電や未使用の埋蔵電力をあわせれば、原発をやめても大丈夫と、お役所に「もっと数字を積み増せ」と大号令をかけています。

 菅さんは、記者会見でも「脱原発」を高らかに宣言しましたが、きのうになって政府方針でなく、個人の考えだと言い出しました。大躍進運動は2千万人以上の犠牲者を出したそうですが、菅さんの個人的運動が続けば、犠牲者がどれだけ出るかわかりません。誰でもいいから早く止めてください。この国に独裁者もどきは要りません。
 

泉州水なす様

 投稿者:高柳  投稿日:2011年 7月14日(木)21時27分7秒
返信・引用
  ご次男の遭難事故大変でしたね、命があれば人生は続けられます。

山へ復帰する日は必ず来ますよ。復帰してください。

ご次男は以前、烏帽子小屋でアルバイトをされたご子息ですか。
 

Re: 映画「127時間」

 投稿者:泉州水なす  投稿日:2011年 7月13日(水)10時31分14秒
返信・引用
  > No.1649[元記事へ]

私も昨日見てきました。
私の場合は別の観点からこの映画を見てしまいました。
最後の救助される場面で涙が止まらず・・・!
と言うのも私の二男がこの5月大峰山系で遭難し5日目に渓流釣りの人に
発見され救助されました。(誰にもどこに行くとも言わないで)
本人の5日間のつらかっただろう気持が映像とラップして・・・。
今は福島県でリハビリしながら職場復帰していますが、もう山は行きたくないと
行っています。
 

映画「127時間」

 投稿者:ドロンゴ  投稿日:2011年 6月28日(火)17時16分2秒
返信・引用
  ダニーボイル監督が実話の本から製作、若いクライマーが岩に腕を挟まれ、そこを脱却するまでの「127時間」ほとんど一人芝居で、見る前はどうなのと思っていましたが、2時間引き込まれます。やはり、主役のジェームスフランコが上手い(日本人俳優との差をヒシヒシ)ブルージョンキャニオンの景色も素晴らしい・・お勧めの映画でした。  

大田会長を送る会

 投稿者:高柳  投稿日:2011年 6月28日(火)11時10分42秒
返信・引用
  連絡帳からのつづき

話は大田さんの当会の思い出話が多く、最初の会山行の話、もっと真面目に会山行に参加するよう女性会員からもらった手紙の話、会長になって苦労した会員の人事の話等々ありました。

また、20年振りに同居?することになった奥様の話もありました。奥様が入院したとき、一度しか見舞いに行かず未だに恨まれていること。
東京生活をしているマンションの鍵を間違って、名古屋に戻る奥様に渡してしまい、その夜は自分の部屋に入れずカプセルホテルに泊まりました。

さて、翌日、名古屋の奥様に電話をして、東京の会議をする会場まで持ってきてもらいました。大田さんは鍵を受け取り「ありがとう」の一言だけでした。奥様としては昼食を一緒にするとか、「お昼は食べたの」ぐらいは訊いて欲しかったようです。大田さんが云うのには「殺されるようなメール」が奥様からきたそうです。

大田令夫人殿
20年もの間、単身赴任で生活された大田さんを褒めてあげてください。私どもも生活の乱れがないよう見てきました。清廉潔白の状態でお返しします。これまで通り、優しく接してあげてくださいな。
 

《南アルプス 池口岳の報告》

 投稿者:高柳  投稿日:2011年 6月26日(日)19時47分59秒
返信・引用
  登山日 2011年6月17日

「池口岳」は南アルプス深南部の山と表現され、光岳の西に位置する山である。中央線岡谷駅から飯田線に乗り換え飯田駅で下車、タクシー又は、民宿の車で50分入った南信濃和田に民宿がありここが登山基地となっている。

入山日は晴れていたが、行動日は夜明け前から雨になった。和田の民宿を4時半に雨具を着けて車で出発。林道の終点に車を留めて登山口を5時に出る。道はなだらかな柔らかな道である。大きな岩の下にある「山の神」を通り、雨の中静かにもくもくと歩く。面切平(めんぎりだいら)に6時到着。

樹林帯を登るので雨か、木からの滴か分からない。道は広く柔らかく誠に歩きやすい。登るとやや平になる、という繰り返しで標高がなかなか上がらない。やがて右側の山腹が大きく崩れた黒薙が見られ、その先に黒薙の三角点があった。道の両側には雨に濡れたイワカガミが咲いている。登りはじめて3時間半ぐらい経ったころ利検沢ノ頭(りけんざわのあたま)に出る。

その先にザラナギ平という広い平坦地のテント場がある。水場までは往復1時間半はかかるという。このテント場の外れに山頂まで2時間40分と書かれた小さな標識があるが、それを見たときは嘘だろうと思った。ここまでもう3時間40分も歩いているのだから。しかし、標高は1900m、あと400m登らなければならない。実際にはここから山頂まで2時間20分かかった 。

第1岩場の手前で休んだとき、友人が寒いので下着を替えたいという。激しい登りがないので大量に汗をかくことはないが長い登りなので汗はかいている。わたしが傘を出してさし掛け、友人が持ってきた下着を、わたしの傘を持つ手の脇に挟んだ。雨具はザックに被せ、わたしの空いた手に友人は脱いだスポーツシャツ、下着を掛ける。それから乾いた下着を着けた。

この一連の手順をわたしは可笑しさをこらえて見ていた。そのあと目が合ってお互いに笑ってしまった。昔と同じ手順を二人とも覚えている。45年来の山友である。
標高は2000メートル、今の気温は10度位か。4月下旬から梅雨明けまでは寒さには十分気を付けないと低体温症なる。

肌が冷たいときは乾いた下着を着けるのが最善で、着衣の上からダウンを着ても保温は望めない。長時間の日帰り山行や、縦走のときは直接肌に着けて温かいものを所持したいものである。薄手のフリースで上質なものなら直接着られる。そして濡れた下着をフリースの上から着て、一晩寝れば乾いていてしまい翌日はまた下着として着られるのである。

ロープの付いた第1岩場を登ると間もなく二つ目の岩場に出る。これを越すと池口岳の北峰(2392m)で11時5分に着いた。登り始めて6時間5分、登山口からの標高差は1316m。山頂は広く、天気が良ければ光岳がそばに見え、南アルプスの主峰がみえるはずだが今日は全て雲の中である。この先に南峰(2376m)があり往復1時間かかる。南峰へ行くのは止めにして昼食にした。

相変わらず雨は降り続いている。風を避けているが時間が経つと寒さを感じるので下山することにした。11時40分登ってきた道を下山する。二つの岩場を難なく通り、あとはひたすら下るだけである。下りながら急坂を騙されるように登ってきたことを実感する。登っているときは広く柔らかな道で、斜度の辛さは感じなかったが、下りは殆ど小走りになってしまう急坂である。こんな道を良くぞ6時間も登ったものであると思う。

午後2時を過ぎたころより雨が上がり稜線も見えるようになった。黒薙の崩落地の上にある草地で休憩をとり雨具を脱ぐ。崩落している斜面に薄桃色のツツジらしき花が見られた。正面の山稜にも雲が這い登っていて、明日の好天を告げているようだ。面切平を4時に過ぎ4時40分下山した。行動時間は11時間40分であった。

☆コースタイム
民宿4:30登山口駐車場(1076m)5:00山の神5:45面切6:00黒薙ノ頭(1838m)7:20利検沢ノ頭(1902m)8:25ザラナギ平=テント場(1915m)8:40第1岩場(2158m)9:50池口岳北峰(2392m)11:05~11:40第1岩場12:20テント場13:40黒薙ノ頭14:50面切平16:00登山口16:40
 

目の前から消え去ろうとしている思い出の数々

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 6月 3日(金)11時07分40秒
返信・引用 編集済
  今月末で事務所を閉鎖することにした。過去40年の成果とも言える膨大な資料を廃棄処分にするため社員に整理させている。一つ一つの資料に過去の仕事が詰まっており、手にとって見ると懐かしく自分ではとても整理できない。
東北太平洋沖大地震の津波で家が流され、アルバムを失った家族が多いが、その人達の心境に近いのではなかろうかと思う。書籍、雑誌、報告書類とともに資料類が書棚やキャビネットから次々と引き出され、結わえられていく。それらの全てを今月中に失うことになる。
悲しい気持ちではないが、寂しい気持ちである。少しくらい残してもいいかなと思うが、きっとあれもこれも残したいということになろう。
土木や建築などであれば構造物として残っていくが、私の仕事はそのような形では残らない。著作物として残るものでもない。どこかに残される報告書や資料などがあるだろうが、その末尾に名が記されていても誰も気づいてくれないだろう。
自分史を作成しておくべきだったかとの思いもあるが、所詮、自己満足に過ぎず、やがてはゴミとなり廃棄処分となるのであれば、それも徒労かもしれぬ。今、目の前から思い出が消えていこうとしている。
 

Re: 新潮文庫「朽ちていった命」

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 5月29日(日)23時17分2秒
返信・引用
  > No.1635[元記事へ]

悲惨ですね。バケツに入れ、手で掻き回したというのが信じられないですね。
裏マニュアルは法に反したものでしょうから、殺人罪とは言いませんが、それを作成、指示した人間は過失致死より重い量刑になってしかるべきでしょうが、どうなったのでしょうかね。
しかし、本人も安易な慣れ、甘さがあったのでしょうが、自分が取り扱っているモノの危険性の認識の欠如は責められるべきでしょう。取り扱いを定めた法に違反しているのは明らかですよね。

放射線量のしきい値がどの位の値なのか、性別、年齢によって多少の違いはあることでしょう。このしきい値を越えると直線的な関係、すなわち被爆量と致死率に相関があるのでしょうが、その直線的な関係をミリシーベルト、マイクロシーベルトまで当てはめ、微量でも危険と騒ぐのはどうでしょうか。

醤油だって、塩だって、摂りすぎると死に至ります。例えば、海で遭難したとき、喉が渇いたからといって海水を飲みませんよね。死にいたるのは、塩分摂取量がしきい値を越えているからで、日常的に料理に使用している程度では死にませんよね。
ポカリスエットなどのスポーツ飲料にも塩分が入っています。これは運動で汗をかいて喉が渇いたときは飲むべきものですが、成分的には{薄い海水}とも言えます。
放射線ホルミシス効果は、分かり易く言うと、塩分の入ったスポーツ飲料の効果と同じものと言えます。必要以上に過剰に摂りすぎると海水を飲んだときのように死に至るかもしれません。しかし、{薄い海水}が運動時の身体に良いことも認めるべきです。

放射線の人体への影響はこの方面の医学の研究者の判断に委ねましょう。むやみに怖がるのはやめましょう。
 

Re: 山岳映画 「岳」 を見て

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 5月29日(日)22時46分32秒
返信・引用
  > No.1620[元記事へ]

土曜日に見てきました。感動しました。
で、ちょっと、椎名久美のウェア、赤のチェックのシャツ、あれほしい、男サイズは売ってるかなぁ~。
 

新潮文庫「朽ちていった命」

 投稿者:新月  投稿日:2011年 5月29日(日)19時18分43秒
返信・引用
  被曝治療80日間の記録  NHK「東海村臨界事故」取材班
この本は放射線被曝者大内さんと家族そして治療班の凄絶な記録である。

1999年9月30日東海村で発生した臨界事故で中性子線により被曝した大内さんの死亡までの記録で、本人は高校時代はラグビー部で活躍した35歳、身長174センチ、体重76キログラムというがっしりとした男性で妻とご子息がいた。

中性子線は人体にあるナトリウムをナトリウム24という放射性物質に変えて体内部から破壊していく。8シーベルト以上浴びると死亡率は100%と云われているが、大内さんは20シーベルト浴びたと認定された。

結果として骨髄細胞の染色体は破壊された。このため細胞分裂ができなくなり、新しい細胞が生み出されることなく、古くなった皮膚は剥がれ落ちていった。そしてついには皮膚が無くなり血と体液がにじみ出た。最終的には一日に2リットルの体液がにじみ出た。白血球の数は100までになり免疫力は全く無く、筋肉線維はほとんど失われ細胞膜しか残っていなかった。

頭、顔から全身にガーゼを当て、包帯で包むようになり、毎日10人がかりで2、3時間かけ包帯の交換をした。ガーゼを交換するたびに残っていた皮膚が剥がれた。交換した包帯とガーゼはワゴン一杯になり、それらを計量し、にじみ出た体液分の水分を点滴で補充した。爪も剥がれ落ちた。大内さんは目蓋を閉じない状態になっていたので、目が乾かないよう黄色い軟膏を塗っていたが、ときどき目からも出血した。

このような状態の患者とその家族に向かい合う医療チームの葛藤である。看護婦はこれまでして生かしておかなければならないのかと自問した。強い麻酔薬を点滴で入れ続け、本人に意識は無いはずなのに、ちょっとしたとき眉の間にしわを寄せ痛みを表現するときもあった。そして治療開始から80日後の12月21日午後11時21分死亡した。

死亡後解剖されたが心臓の筋肉だけは正常で、医学的には説明つかないとされた。しかし、このことこそが大内さんが生きたいという意思のメッセージではなかったのかと、医療チームは自分達の努力が無駄ではなかったと納得できた。しかし同時に、初めての経験で的確な治療が分からず航海図がない航海であったことを悔いた。

事故原因は大内さんが行う作業を国が定めたマニュアルでなく、事業所長が認めた裏マニュアルがあり、そのまた裏マニュアルで作業の手抜きを行ったためである。
ステンレス製のバケツの中で溶かしたウラン溶液を、手作業で濾過機に入れていた時の事故で、素人が考えてもなんだか怖いことであるが、大内さん達にはその危険性についての教育が行われていなかったとも云われている。
 

新潮文庫「三陸海岸大津波」 吉村昭著

 投稿者:新月  投稿日:2011年 5月28日(土)11時31分35秒
返信・引用
  本書に掲載されている大船渡小学校六年生 石川量一という少年が学校で書いた作文である。始めは警報のサイレンを火事の発生と思いこんでいる。

「アッ火事だ」
消防団のサイレンがけたたましくなった。
ぼくは、ねている弟を起こした。急いで服をきて表に出て見た。津波だ。大変だ。ぼくは、家の中にもどって、
「けんじ、けんじ」
と声をはりあげで呼んだが、へんじがなかった。
もう一度表に出て見たら、弟がお父さんにおんぶしてくれ、といっていたのが最後の声だった。

水はぼくのひざかぶったくらい来た。お母さんは妹をおぶってにげた。ぼくがお母さんの後をおっていこうとしたら、女中さんが、
「量ちゃん、量ちゃん」
とよんだからたすかったが、よばなければぼくも死んでいた。
ぼくと女中さんは、隣の木下医院の窓にすがっていた。お母さんがひろ子をおぶってせんろの方へにげようとしたら、木下医院の間から大波がきて来てお母さんの足をさらっていった。そのときぼくは、「お母さんが死んだ」と思った。私は、思わず涙が出た。病院の窓にしっかりすがりついて、ぼくの家の方を見たら家はたおされていた。

ぼくは津波を初めて見たので津波の力がわからなかった。だんだん水がいっぱいになって、首まできた。もうだめかと思った。すると、水がだんだんとひいていって、病院の薬のまざったにおいが窓から流れて来た。強い臭いだった。その臭いで死ぬのかと思った。
だんだん臭いがしなくなって、またも津波が来た。その津波は弱かった。すぐに水はひけた。

そこへ消防団の人が来ておぶってもらって旅館の二階に上がった。しばらくたって及川さんの知っている家へ行くとちゅうに、おかあさんが柴田病院にいると聞いたのでよかったと思った。すぐ柴田病院に行って、お母さんにあった。そこでずぶぬれの下着をとりかえ、二階で休んだ。

少したって女中さんが来て、ひろ子の死体を柴田病院に持って来たといった。私は驚いてしまった。その時は死体を見なかった。
しばらくすると、又も、
「津波だ、津波だ」
と、みんながさわいだので、すぐに「大三」の車にのって中学校へにげた。

それから及川さんのしんせきの家で休んでいたら、おとうさんとけんじの死体が見つかったというので、すぐ西光寺に行こうと思ったら、永井さんのおとうさんが呼びに来たので永井さん家でおちついていた。それから仙台のおじさんが車で二人来たのでそれに乗って西光寺までいって、おとうさん、けんじ、ひろ子の死体を見たら、ぼくは大声をあげて泣いてしまった。

お母さんはみんなにしがみついて泣いた。ぼくはかなしくて、かなしくてわからなかった。ぼくが泣いていると、おかあさんが、
「あと泣くな」
といった。それでもかなしくてわからなかった。(後略)本書でも後略になっている。

このような悲劇が、又も三陸地方にみられたのである。

以上吉村昭著「三陸海岸大津波」からの抜粋であるが、この少年の作文は昭和35年チリ津波の出来事である。著者は「このような悲劇が又も三陸地方にみられたのである」と記しているが、今回の東日本大震災をみて鬼籍入られた著者は何を思うのだろうか。

「神の力は計り知れないけれど、神は悪意を持たない」という言葉がよみがえる。人間は自然に対して傲慢すぎるのかもしれない。過去の経験を生かしてきれていないのではないだろうか。津波のあとは高台に住居も構えた住民も年月を経るとだんだんと便利な海岸に近づくと著者も書いている。

著者はこの本を1970年に発行した。また、2001年には田野畑村で津波の講演を行っている。三陸海岸の津波の危険性について40年前に本書を著わし、そのなかで田野畑村では津波が海面より50メートル上にある崖の民家にも及んだことが書かれている。

1896年 明治29年6月15日午後8時30分ころ津波発生
1933年 昭和8年3月3日午前3時ころ津波発生
1960年 昭和35年5月24日午前3時ころチリ地震津波到来
1970年 昭和45年本書「三陸海岸大津波」発刊
2001年 平成13年著者田野畑村で津波の講演
2011年 平成23年3月11日午後2時46分東日本大震災発生
 

悲しいニュース

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 5月15日(日)18時55分20秒
返信・引用
  毎日のように閲覧していた「はなさんのポリログ」の花岡信昭さんが急死とのこと。
急性心筋梗塞ということですが、心よりお悔やみ申し上げます。
 

眼から鱗(うろこ)

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 5月12日(木)11時27分24秒
返信・引用
  私の財布の中に入っているお札は、実は「借金証書」であると知って驚いた。

下記のブログを読んでみてください。眼から鱗(うろこ)です。

http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

たくさんの知識を身につけるため、もっと、もっと本ならぬ、ブログを読まなくてはいけませんね。
 

山岳映画 「岳」 を見て

 投稿者:新月  投稿日:2011年 5月 9日(月)20時32分19秒
返信・引用
  雪山に於ける山岳救助隊を扱った映画で、言葉が生きている中々のできあがりです。雪の穂高連峰が美しく撮られています。

物語は救助される側と救助する側の葛藤の中で山で死ぬとは何かを提起しています。わたしにとりましても身に詰まされる会話が多く、上映時間2時間強の3分の2は涙が流れていました。ハンカチで目を拭いテッシュで鼻水を拭くという具合で、暗いのが救いでした。

わたしは雪山で二人の友を亡くしていて、一人は針ノ木沢です。雪崩が起きた時わたしと同期の男が、そばにある樹に後輩の尻を押して登らせ、自分は雪崩に流され死亡しました。

いま一人は宝剣岳での滑落死亡です。この男はいいヤツなのですが普段から少々乱暴者で、わたしがどれくらい注意したか。ある年の5月に上高地の徳沢から蝶ヵ岳を往復したとき、我慢がならず「あんたは死んでもいいけど、周りの人を巻き添えにしないでくれ」と言い放ちました。そして2年後の5月滑落しました。

映画の中で長沢まさみの父親が雪山で死の直前に残したテープの中で、娘の学校の催し物に一度も出席したことが無いことを詫びる言葉はあります。わたしも同じでした。結婚して35年間、春のGW子供の日に家にいたことが無く山へ行っていました。

その後、現在もGWに幼い家族連れを見ると、わたしは一度も子供とGWを過ごしたことが無かったことに苦しめられています。
 

Re: 白馬雪渓雪崩遭難に思う

 投稿者:わくちゃん  投稿日:2011年 5月 3日(火)13時19分2秒
返信・引用 編集済
  > No.1618[元記事へ]

新月さんの仰る通りですね。
遭対協の降籏義道・救助隊長は「沢筋のルートは登山が簡単だが、危険度は増す」残雪が例年より多いので「白馬岳を目指すには栂池高原など尾根のルートを通るべきだ」と話されています。
自然の厳しさに対する認識が甘くなってるのでしょうね。雪山には自然の厳しさを十分に認識した人だけが入るべきでしょう。私は入る資格がありません。

検索してみると、1992年5月4日白馬大雪渓、標高2500m小雪渓付近で発生した雪崩が幅80m長さ3kmに達し、白馬尻付近のテント埋没3名巻き込まれ2名死亡1人負傷事故がありました。

4月や5月に大雪渓に入るようになったのは山スキーが影響しているのかもしれません。
2006年5月1日針ノ木雪渓中間部で山スキーヤー5人が巻き込まれ2人が死亡。翌2007年4月15日針ノ木岳マヤクボ沢で山スキーヤー2人が巻き込まれ1人重傷、1人軽傷。4月28日にも白馬岳大雪渓2450m付近や大雪渓周辺で大小の雪崩頻発、山スキーヤー2人が巻き込まれる事故。2008年4月12日爺ヶ岳扇沢で山スキーヤー1人が巻き込まれ死亡事故が発生しています。

1992年当時も白馬大雪渓に山スキーの道具を持って入る人がいたと思います。登山器具の発達が自然の厳しさに対する認識を甘くする要素になったのかもしれません。

新月さんが活躍されていた頃の雪崩遭難では、1974年3月18日にも、9名が遭遇、3人自力脱出、1人救助5名死亡事故がありましたが、白馬岳主稜末端とあります、大雪渓下部と記した文献もあるそうで、このころは場所の特定がなされてなかったのかもしれません。

古くは針ノ木大雪渓赤石沢出合では昭和2年、5年と立て続けに、11~12名のパーティが事故に遭っています。しかし、これは年末年始です。

 

レンタル掲示板
/40